オタクはすでに死んでいる


新潮社 新潮新書
オタクはすでに死んでいる /岡田斗司夫

「間違ってるのは世界の方だ!」と、一生懸命叫んでるような内容なんだよなぁ。そんなむちゃな姿勢で書かれてるので、ツッコミどころが多く、論旨がめちゃくちゃになってるのは残念。部分部分を見れば、おもしろくて感心する部分も多いのだけど……。

や、この本では結局、「最近は、オタク同士の仲間意識や連帯感がなくなってるよね」ということを指して「オタクは死んだ」と言っていて、それ自体はそんなに違和感のある話ではないのだけど、ただ、そこへ到る過程がすげー変なんだ。

つまり、作者が何故そう思うに到ったかというと、「最近の若者は“萌え”を追い求めるだけで、作者の知ってるオタクの必須教養に見向きもしてくれない」とか「オタクを極めた作者が、“萌え”を知らないだけでノケ者にされてしまう」と言った感じで、たんに、「最近、“萌え”とか理解できないし、疎外感を感じるんだ」と言ってるにすぎないのよ。そこには主観だけで客観的な評価のかけらもない。そして、そこからいきなり一般化して、「今はみんな、互いに理解が出来なくなって、連帯感とかなくなっちゃったよね」と言われてもなぁ。

仮に連帯感が喪失しているとしても、その原因として、例えば、「若者とは世代が異なるので、価値観が共有できない」とか「オタク文化は細分化してしまい、前提となる知識の共有もできない」という話なら理解できるのだけど、そういうのではなく、「“萌え”のように自分の好きなものにばかりこだわる人が増えて、連帯感がなくなってしまった」と結論付けてるの。それって、やっぱり無理があるよね。だって、“萌え”という言葉がなかった頃だって、ある種の思い入れや好きなものへの拘りがオタクの原動力であったのは変わってないのだから。そして、もともと、オタクの持つ連帯感って、「俺は眼鏡が好きだが、御主はポニテが好きとな」という感じの、それぞれ違う“好き”かもしれないけれど、互いに“こだわり”があるから生まれるもので、決して、作者の言わんとするような「嫌いなものでもこだわりなく、広く知識を共有するから生まれる」という類のものではないと思うんだけどな。

[ 2008.05.15 ]